個性について
ここ暫く描くときに気を付けている事があります。
それは 『 個性を求めすぎない 』 ということです。

今年に入ってから、いろいろと現代アートとされるものを観るように心がけています。
以前から現代アートと言うと『個性』を強調しすぎている印象が強く、あまり観たいと思いませんでしたが
実際には水の流れるが如く自然な空気感を持った心地よい作品も多く感動したりもしました。

ただ、やはり何故だか『個性』を装っているだけで、中身が存在しないものもアートと言う分野に限らず多々存在しているわけです。

こうした上辺だけを装った個性に対して、私の考える真の個性について記述します。


私は作品のイメージを作り出す段階で、モチーフを選んで『これをこのように配置して、このようなタッチで描いてゆこう』などと言うことは一切考えません。

私の考えでは、イメージの元となる『感覚』は意識では捉えられない『感覚の世界』に既に存在しており、何らかの影響で『感覚』が突然浮かび上がり、それが『感覚的な要素を含んだイメージ』として私のもとにやってきます。
または、感覚の要素が強すぎてイメージとして成立せずに消えてゆく場合も多々あります。
そして、クロッキーに描きなぐります。
もしくは、そのまま清書します。
このようにして、紙の上に具体的な形で現れた時点で、『感覚的なイメージ』は私の中で『リアルなイメージ』として一定の終着点に到達します。
この『リアルなイメージ』は既に『個性』を生じているわけですが、ではどこで『個性』が生じたのか?
イメージの元となる『感覚』は『感覚の世界』で発生し、『意識』へと入ってきます。
しかし『意識』にとって『感覚』はそのままでは理解できない存在であるため、『感覚の翻訳』が行われます。
この『感覚の翻訳』は、それまでの経験則や観念が担当し、出来る限り『意識』に理解できるように『感覚』を言語化・イメージ化・音声化してゆきます。
そして、このとき正に翻訳された部分に『個性』が生じると推測されます。

『感覚の翻訳』は『意識』がイメージを認識できる以前に行われるため、『意識』は『個性』が生じるプロセスに関与することはできません。
もし、『個性』が生じた後に、その方向性や特性に新たな色を加えようとしても、それは『個性』に対して無駄なベールを多いかぶせるだけの行為にしか過ぎず、本来の魅力が失われる可能性を多分に含みます。
つまり、『真の個性』は自分ではコントロールできない要素であると言えます。

それ故 『 個性を求めすぎない 』 。。。


2009-06-01 Mon 21:46


戻る